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【高橋祥子/後編】生命科学×子育て。母親の「孤独」と遺伝子の関係
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「子育てをしている人こそ、サイエンスを知ると楽になる」。個人向け遺伝子解析サービスを提供する株式会社ジーンクエスト代表取締役の高橋祥子さんは、自身も今年4月に出産した一児の母。産後の慌ただしく激動の日々を過ごす私たちを、生命科学の観点から見つめたとき何が分かるのか、自身の経験とともに解説してもらう。
赤ちゃんが未発達の脳で生まれることや、出産直後の母親が孤独を感じる現象はヒトの進化の過程で備わった生物としてのシステムであり、だからこそ人は「共同育児」によって世代をつないできた。
だからこそ、母親に負担がかかりやすい現代の社会構造とのギャップが生じているのだと前編で語ってくれた、個人向けの遺伝子解析サービスを手掛けるジーンクエスト代表の高橋祥子さん。
後編では、産後誰もが経験する心の変調、不安や孤独感について科学の観点から語ってもらう。
母親の「孤独」も共同育児をするためのシステム
――前編では、人間という生物が、共同で子育てをするよう遺伝子が決められていると伺いました。産後の母親のメンタルが不安定になるのも、人間が進化する過程で必要だったことなのですか。
私自身、出産直後が人生で一番身体的につらかったです。
産後一カ月くらいまともに歩けず、夜泣きで眠れず、つらいとか寂しいという何か明確な原因があるわけでもないのに、なぜか入院中毎日涙が出て助産師さんによく相談していました。
こうしたとき、出産による身体的なダメージと育児が大変で精神的に弱っているのかな、と思うことも多いですよね。しかし、このような産後のメンタル変化にも生物学的な背景があります。私が代表を務めるジーンクエストでも、さまざまな企業が参画するコンソーシアムで「周産期うつ病」の社会課題解決について集中議論を始めたところです。
同時に知っておいていただきたいのは、実は7割から8割ぐらいの産後の母親が孤独を感じやすいといわれていることです。
このような変化も生理的な仕組みが存在しており、妊娠に適した体をつくり、維持するエストロゲンやプロゲステロンというホルモンが急激に低下することで産後の母親が不安を感じやすいと言われています。
生物的な観点から見ると、赤ちゃんは脳が未発達の状態で生まれてくるために、ヒトは共同で子育てをするシステムになっていて、そのシステムを機能させるために、母親が孤独を感じるようになっている。
つまり遺伝子が孤独を感じるようにプログラミングされていることで、母親が周りの人を引き寄せる仕組みになっていると考えられているのです。
産後の孤独感はヒトの生き物としての性質上当たり前のことであり、体内での生理現象として引き起こされているものだと知ったとき、私はすごく気持ちが楽になりました。
産後を「根性論」や「精神論」で語らない
ヒトの仕組みが、もともと共同で育児をするよう遺伝子に刻み込まれているんだと知るだけでも、メンタルの変化は「自分のせいではなく仕方のないことなんだ」と納得できると思いますし、出産を経た母親の身体にどのような変化が起こるのかを周囲も知っているか知らないかでフォローのしやすさは大きく異なると思います。
育児を母親がひとりでやらなければいけない、うまくできないのは自分が悪いんだ、と追い込んだり、責めたりしなくていいんです。
私も最初は、これから育児をするというのになぜ不安や孤独を感じるのか、すごく不思議でした。
私たちは共同で子育てするように、ヒトになる進化の過程で遺伝子に刻まれています。集団で子どもを育てるために母親が孤独を感じることで、周囲の人といっしょに子育てするようにできています。
そもそもヒトは群れで生活する生物で、ひとりでは生きていけないので産後にかかわらず孤独を感じる遺伝子があることが明らかになっています。集団を形成し、生存の可能性を高めることが第一だったわけです。
それを考えると、産後の母親が孤独を感じるのは当たり前です。
それを悪いことなんだと受け取ったり、がんばらなきゃいけない、我慢しなきゃいけないと精神論で考えると余計つらくなってしまいます。
他にも我慢してはいけない事例として、私の友人で、妊娠中寝る前に足がむずむずして眠りにくくなる「むずむず脚症候群」の症状があった方がいたのですが、「赤ちゃんが夜中に泣いたときに母親がすぐに起きられるように眠れなくなっているのかも」と眠れないことを我慢していたので、すぐに違うことを伝えました。
むずむず脚症候群は妊婦のうち約15%の人がなると言われていて、これは脳のドーパミンの機能低下から起きるものです。ドーパミンの合成に必要な鉄分不足が原因のひとつであるのですが、妊娠中から産後にかけては普段の3倍の量の鉄分が必要で、私の友人は足がむずむずすることと鉄分の関係を知らなかったのです。
不安に対しても体調の変化に対しても、我慢すればいいという根性論ではなく、科学的に捉えることが大事だと思います。
――体に起こる変化を我慢しないで、きちんと科学的に対応することが大切なのですね。
他にも、根性論で語られることが多いと実感したのは母乳です。
私は母乳育児をしたいと思っていましたがどうしても母乳が出にくい体質で、1カ月検診でそのことを相談したら「まだまだがんばりが足りない」と言われました。一日に10回くらい搾乳して刺激を与えて、1回当たり40分間を合計8時間くらい授乳・搾乳に時間を費やして、食事にも気をつけていたのですが、これでもまだ努力が足りていないんだと疑問に思いました。
しかし歴史をさかのぼってみれば、実母のかわりに乳児に授乳する乳母という存在もいたわけで、どの時代にも母乳が出にくい体質の人が存在したわけです。厚生労働省の調査で完全母乳育児が約30~40%しかいないことを考えると、完全母乳育児ができないのは努力の問題ではないとと疑問に思い、ミルク育児へと移行したのです。
人類の進化の過程で残った遺伝子の作用
――他にも、母親に起こる変化で知っておくと楽になることはありますか。
たとえば栄養について、最近うちの子は離乳食を始めたのですが、なかなか思うように食べてくれず苦労しています。
そこで不思議に思ったのは、ミルクだけを飲んでいればいい乳児期とは違い、そもそもなぜヒトはこんなにさまざまな栄養素を摂らなきゃいけないのかということです。
妊娠中は、鉄分や葉酸などの栄養素を摂るように言われると思うのですが、ビタミンCを例に考えてみると、実はヒトの体内では生成できず、ビタミンCを作る遺伝子が一部欠損しています。
そのため私たちは野菜や果物から意識的にビタミンを摂ろうとしますが、体内でビタミンCを作れない生物は実はそんなに多くなく、イヌでもビタミンCを作れます。
これは進化する過程で、ヒトはビタミンCを摂取できる食べ物へのアクセスがある状況だったために、ビタミンCを作る遺伝子が一部欠損していても生存上不利にならなかったからです。
つまり、いつでもどこでもビタミンCを摂取できる環境にあるから、別に体内で作れなくてもいいや、とビタミンCをつくる遺伝子が欠損したままの状態が今の人類なのです。
種が存続していく上で、生存上必要なシステムは遺伝子に残り、必要ではないものは自然淘汰された上で今の私たちの体がありますが、それは必ずしも、私たちが今生きる環境に最適化されているかというとそうではないわけです。
だからこそ、生物学上、私たちの遺伝子に刻まれたシステムで妊娠中や産後の体に変化が起こることを知っていれば、先ほどのビタミンや鉄分など必要な栄養をきちんと摂取することや、急激なホルモンの変化に対しても事前に準備ができるし、変化を受け入れることも難しくなくなるのではないかと思うのです。
他にも、知っておくことで価値観が変わるかもしれないこととしては、まだ詳細には分かっていないことなのですが、女性の脳は出産によって構造が変化すると言われています。
子育てをするために研ぎ澄まされる部分もあれば、あえて機能を弱くする部分もあるのでメリットとデメリットがありますが、まずメリットは意思決定力が高くなることだと言われています。体の各部位に運動の命令を出す脳の運動野という領域が肥大するためです。
脳の上側頭回という部分も肥大しますが、これは、泣き声だけで自分の子どもを見極められるようになるなど、細かいことに敏感になる部分です。
他にも、妊娠に適した体をつくり、維持するエストロゲンやプロゲステロンというホルモンが出産によって急激に低下することで、体に不調や疲労が溜まり、新しいことをしようという気持ちになりにくかったり、脳の一部が縮小し、出産の痛みを忘れて子育てに適応するために構造が変化することなどが知られています。
こうした生物学的な変化があることをパートナーや周囲の人々、ひいては社会全体が認識するだけで、子育てがしやすくなるのではないかと思っています。
一人ひとり違う遺伝子情報を知れば共同育児がうまくいく
――ここまで、人間という生物の遺伝子にどんな心身の機能が含まれているのかを聞いてきましたが、高橋さんが行っている個人向けの遺伝子検査で知ることのできる情報を子育てに生かすことはできるのでしょうか?
「遺伝子」「DNA」に並んで、「ゲノム」という言葉がありますが、これはその人が持つ遺伝情報のことで、その全ての総称のことを指します。
私たち一人ひとりの外見や体質が違うのは、ゲノムに刻まれた情報がわずかに違うからで、唾液などの生体試料から採取したたくさんのゲノムのデータから生命の共通点を探り、病気のリスクや体質との関係などの情報を読み解くのがゲノム解析です。
こうしたゲノムを中心として、「生命に共通する法則性を解き明かし、それを活用する学問」が生命科学であると、私は定義づけています。
生命の“共通点”が分かれば、病気を治せるかもしれないし、もっと健康長寿になれるかもしれない。「命」のあらゆる可能性につながる学問です。
これまでのゲノム研究は、病気の原因に注目したものが多くありましたが、疾患以外の体質に関するゲノム研究もここ数年では進んでいます。たとえば、ゲノム解析サービスの先駆けともいえるアメリカの23andMeという会社は、朝型か夜型かに影響するゲノムの箇所を見つけたと2016年に発表しました。
これは、約9万人のユーザーによる朝型か夜型かの自己申告と、ゲノムの個人差を比較して明らかにしたものです。
まだ知られていないこともありますが、朝型に影響するゲノム上の個人差の一部は、体内時計に関係する遺伝子の近くにあったといいます。そのため、体内時計に何らかの影響を与えていることが予想できます。
なぜ睡眠リズムは人によって異なるのかを考えたら、集団生活する中で、睡眠時間が重ならないような多様性をつくることで人類は生き延びてきたのではないか、と仮説を立てることもできます。
私も、夫もゲノム解析をし、睡眠についても調べたところ、私は夜型でライトスリーパー、旦那は朝型でディープスリーパーと、真逆だということが分かりました。
だから、心置きなく朝の育児は夫に任せるようにしています。
――遺伝子で決まっていることなら、体質的に難しいことが納得できますね。
最初は私も忍びなく思い、ある日「いつも朝の育児を任せっきりだから変わったほうがいいか」と聞いたら「遺伝子的に睡眠が必要なタイプなんだから無理して早起きしない方がいいよ」と言われたことがありました。お互いの遺伝子を知るという、新しい家庭内関係の築き方もあると思っています。
生命科学としてのテクノロジーが進化し、生物の謎が解けていくほどに、ヒトとしての私たちの体や心の仕組みや、その個人差が明らかになっていく。
それを理解することが、子育てをしやすくするのだと、自分自身が子どもを産んで初めて分かりました。
サイエンスは人々を幸せにするものだと信じています。
日々、慌ただしく大変な子育てで、がんばりが足りないからだと自分を責めてしまう方もいると思いますが、決してそうではありません。ヒトに受け継がれた遺伝子がつくりだす体や心の仕組みを知り、対策することで変わることがあると、すべてのお母さんたちに伝えたいです。
<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部