「弟の仇討ち」のために店を開いて179年…江戸から続く千代田区の「天野屋」が"いい加減な経営"を大事にするワケ
「いつでも止められる」から家業をつないでこれた
Profile
東京都千代田区に、江戸時代から続く甘酒屋「天野屋」はある。2度の大地震、太平洋戦争、コロナ禍と数々の危機に見舞われてきたが、179年もの間家業をつないできた。「仇討ちから店は始まった」と語る7代目当主の天野太介さんと店の軌跡に、フリーライターの笹間聖子さんが迫った――。
神田明神の鳥居脇、創業179年の小さな「甘酒屋」
「江戸の守り神」として全国から参拝者が訪れる神田明神(神田神社)。その大鳥居の西隣に、10坪にも満たない木造瓦屋根の店がある。甘酒屋「天野屋」だ。
店内に足を踏み入れると、茶房だった。ステンドグラスのライトや柱時計、和柄の座布団が目に入る。歳を重ねて黒みを帯びた木壁と共に、明治、大正のような風情を醸し出している。
10時の開店すぐだが、次々に訪れた客たちが、冷やし甘酒や甘酒のかき氷でひと心地ついていた。筆者も冷たい甘酒を一杯いただくと、食感はまろやかで、つぶつぶ。ほんのり酸味があるがしっかり甘くコクがある。乳製品のような味わいだ。糖度はバナナくらいだろうか。
「小売りはあちらです」と聞いて、一度店を出て東側の出口から入ると、甘酒に糀、味噌、納豆など、発酵食品が並ぶ販売コーナーがあった。店の北側には、甘酒をつくっている工房も。
天野屋は、1846年から代々続く老舗だ。店舗自体は第二次世界大戦後に建てられたものだが、179年の歴史を持つ。なぜ家族経営の小さな店が、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和の今まで続いているのだろう。危機が訪れたのも一度や二度ではないはず。そこにはなにか秘密があるのではないか――。
取材した結果、見えてきたのは、「いい加減であること」の強さだった。
弟の仇討ちに出たはいいものの…
「うちは仇討ちから始まった店なんです」
柔和な笑顔を浮かべてそう話すのは、天野屋7代目当主の天野太介さん(45歳)。
「でも敵が見つからなくて、探しながら江戸で食べていかなきゃいけなくなって。その店が今でも続いているんです」と続けたのは、太介さんの大叔母の史子さん(78歳)。
天野屋の屋台骨のふたりだ。製造は太介さんと弟さんふたりで。茶房と販売は史子さんが、アルバイトスタッフ4人と共に切り盛りしている。ふたりに創業について尋ねたところ、聞かせてくれたのはこんなストーリーだ。
創業者 天野新介は、京都・丹後の宮津藩の侍だったそうだ。その弟が武芸に秀でていたため江戸に上り、後に坂本龍馬も学ぶことになる千葉道場で師範を務めていたという。ところが道場荒らしに遭い、道場生を含め、全員が殺される痛ましい事件が起こった。
当時は仇討ちが当たり前の時代。弟が何者かに暗殺されたことを知った新介は、「仇討ちしないのか」「するに違いない」という周囲の目もあって江戸へ。しかし、目撃者の証言からモンタージュをつくる技術もない時代である。生き残った者もおらず、憎い仇の顔が分からない。探すうち、江戸での逗留はどんどん長くなった。とはいえ、成し遂げずに故郷に帰れば、「仇を討たなかったもの」と冷遇されるかもしれない。
「江戸で食べていかなければ」
そう考えた新介は弘化3年(1846年)、参拝客が引っ切りなしの江戸の守り神 神田明神の鳥居の隣に茶屋を開く。往来の多い中仙道のすぐ脇でもあり、「いつか仇に出会えるかもしれない」という期待もあった。中仙道は、商業の中心地だった日本橋に続いており、その途上に立ち寄りやすい立地だからだ。当時の屋号は、天野という名字にちなんで「天星てんぼし」だった。