罪のない「6歳の男児」が犠牲に…関東大震災で壊滅状態になった帝都・東京で起きた"理不尽すぎる事件"
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1923年9月1日に発生した関東大震災では、大混乱の中でさまざまなデマが飛び交った。その中には、「朝鮮人が暴動を起こした」といったものもあり、憲兵や自警団が討伐として多くの朝鮮人を殺傷した。しかし、この朝鮮人虐殺事件とは別の重大事件も起きていたという。角田房子さんのノンフィクション作品『増補改訂版 甘粕大尉』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
絶えず襲う余震、八方へ拡がる火焰
大正12年9月1日午前11時58分、厳密には44秒――関東一円を激震が襲い、東京市は138カ所から火災が発生した。多数の死者を目の前にして、破滅の中に辛うじて生き残ったと思う被災者には、この異変をどう受けとめるかの判断もつかなかった。
いきなり足許をさらう衝撃に重心を失ったのは肉体だけでなく、多くの人々が精神の平衡をもこの瞬間に失った。異常な心理状態におちいり、異常な行為を積み重ねてゆく日々の、これが起点となった。
平静をとり戻す余裕を与えまいとするかのように余震は反復し、2日正午までの24時間に356回を記録した。火焰はそれ自体がひき起す強風にあおられて木と紙の家々を存分になめまわし、急速に勢を増して八方へ拡がってゆく。
東京は「大地震により全市壊滅」
消火作業は――荷物を背負った避難民や大八車が道路を埋めて消防車は動きがとれず、水道管破裂で消火栓は使えず、電話が不通のため命令、連絡も不可能であった。
第一震の直後に電信、電話などすべての通信機関が破壊され、汽車、電車も不通となった東京は、荒れ狂う猛火を抱いたまま外部との連絡を断たれ孤立した。わずかに船橋の海軍無線電信所から紀州潮岬の無線電信局へ打電し、これが大阪市への第一報となった。
関東大震災を知った時刻は、地方によってまちまちであった。金沢憲兵隊がこれを知ったのは「午後1時半ごろであったか……」と、当時、金沢憲兵分隊所属の上等兵であった中村久太郎は語る。時を移さず、中村たち15、6人に出動命令が出た。「大地震により全市壊滅」と伝えられる東京の警備応援に、米、ミソ、乾パンと自転車をかついでおもむくのである。