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「母親らしく」の呪縛から解放されるには。歴史に聞く「育児の未来」【前編】
「母親だから」「父親ならば」と、私たちを無意識に縛り続ける「価値観」はいつ、どのように生まれたものなのでしょう。日本の子育ての歴史、そしてこれからの子育てについて和光大学名誉教授で教育学者の太田素子先生と、タレントでエッセイストの犬山紙子さんに対談していただきました。
「母性って子どもが生まれた瞬間に湧いてくるものでしょ」
「母親ならこれくらいできて当然」
「夫は一家の大黒柱となり、妻の仕事は家を守ること」
私たちを苦しめるこうした価値観。どれも「正解」ではありません。
ではなぜ、このような考え方が日本の歴史の中で生まれていったのでしょうか。
今回、和光大学名誉教授で、教育史を中心に近世日本の親子関係や家の継承などを専門に長年研究を続けている太田素子先生と、エッセイストやコメンテーターなど幅広いジャンルで活躍する犬山紙子さんの対談が実現しました。
それぞれの視点で、江戸から現代までの時代背景を紐解き、子育ての歴史の移り変わりを辿っていきます。
そこには、令和の今、子育てや家族のあり方に悩む私たちへのヒントが隠されていました。
「母性神話」を覆す、江戸時代以前の子育て観
――犬山さんにおうかがいします。「江戸時代より前の親子や家族の関係」と聞いて、どのような姿が想像できますか?
犬山:子どもは当たり前に働かされていた印象があります。この頃、家父長制は始まっていたのでしょうか……。男尊女卑はあったのではないかと思います。
太田:意外に聞こえるかもしれませんが、江戸時代以前、結婚できた女性はわずか1/4から1/5でした。残りの大半は、「夫婦」と「子どもの家族」を経験しなかったのです。
たとえば、ある裕福な商家を描いた絵巻の図絵では、父親が魚を捌き、母親がひじをついてお酒を飲んでいる様子が描かれています。子どもも同じ絵の中に描かれているのですが、その子がしがみついているのは親ではなく、女中さんなんですね。
当時、人口の大部分は大きな家に仕えて働く、生涯単身の「永代奉公人」が占めていました。下男(げなん)部屋と女中部屋に分かれていて、そこで夜這いがあるわけです。
奉公人に子どもが生まれると、男の子は男の人の家、女の子は女の人の家で、そこにいる”誰か”がお世話をして育っていきました。
その中には、自分の母親もいたかもしれませんが、手の空いている人が子どもの相手をしていたんですね。子どもはいろいろな人の中から世話してくれる人を見つけ、懐いていたようです。
犬山:自分で自分の子どもを育てられないんだ……。とはいえ、社会で子どもを育てていたということは、現代のママたちがワンオペ育児に悩む姿とは全く違いますね。
太田:そうですね。「一家(いっけ)」といいますが、大きな生活共同体の中で子どもは放任され、子ども同士で自由に遊んでいました。
犬山:そうなると、子どもが親から特別な愛情を受けることは難しかったのでしょうか?
太田:奉公人ではない階層では、生き別れになった愛する我が子を思った謡曲「隅田川」などによって、母の深い情愛をうかがい知ることができます。
しかし、当時の庶民の親子関係は、今ほど緊密ではなく「いつか離れていくもの」「健康に暮らしてくれればそれでいい」という思いがあったのでしょうね。
犬山:私だったら、絶対に子どもと離れられません。でも、今のお話を聞くと、いかに”母性”と呼ばれるものが後付けというか、近現代に都合よく作られた言葉であるかがわかります。
「女性には母性が備わっている」という刷り込みがありますが、一緒に住んでいるうちに愛着がわいて、ケアしたい気持ちや生きていてほしいと願う気持ちが生じていくんですね。
本当の愛情が生まれるまでには、過程や時間があるはずなのに、子どもを生んだ瞬間に「母親とはこういうものだ」と決めつけられてしまう……。価値観は時代によって異なるんですね。
「子よりも家の繁栄のため」教育熱心になった当主たち
――江戸時代に入ると、一般の親子感覚は変わってくるのでしょうか?
太田:「自分の子」という強い感覚は江戸時代から。庶民も家族を持てるようになったのです。
日本人が家族を大事にしたり、未だにある家制度の名残は、江戸時代に始まったと考えられています。
徳川の治める平和な時代が訪れ、家の跡継ぎになる子どもは、8割から9割(※)の人々が結婚するようになりました。「結婚することが当たり前」という価値観の誕生も、江戸時代からなんです。
※鬼頭宏『図説人口でみる日本史』(php、2007年) 17世紀前半(1633)の肥後藩の史料で家の後継者は8−9割、傍系親族で家を出てゆく人々は2−3割。(84頁)
太田:そして、私が感心するのは江戸時代の租税システム。それまでは一家(いっけ)が領主との関係を支えていましたが、江戸時代に入ると、一軒一軒が租税の単位になり、村長(むらおさ)がまとめて上納するという形が定着しました。
自分の家の田んぼが決まっていて、半分ほど年貢として治めれば、あとは工夫次第。流通しやすい蚕や木綿、菜種などの商品作物で収入を増やせば、それだけ暮らしを豊かにすることができました。速水融博士の言葉で「勤勉革命」と呼ばれますが、日本人の勤勉な気質も、この時代に生まれたものだったんですね。
だからこそ、父親は土地に合う種や苗の種類から、気候、読み書きなどを子どもに丁寧に教えました。
太田:会津若松の熱心な農家であった佐瀬与次右衛門という人が、こんな歌を残しています。
太田:「子のをろかさハ親のはぢなれ」……つまり、子どもをきちんとしつけられない親は、家を潰してしまう、ということを謡ったんですね。
犬山:なるほど、家を守ることが今よりも重いのですね。
――自分には合わないからといって身分をまたいだ転職は難しく、その家の役割を受け継いだ世襲が基本だったということでしょうか。
太田:そうですね。近世の中期くらいまでは、はっきりとした身分社会でした。しかし、「家を守る」という意識が生まれたことが、この時代の新しさだったのです。
会津の稲作や農業技術について記された『会津歌農書』には、当時の子育て意識を現したこんな歌もあります。
太田:「作物のために、子どもに農業をしっかりと教えることこそが、親の役割」ということですね。
犬山:「作の為なり」とは……。「子の為なり」ではないのですね。
太田:「子の為」という発想は、もっと後の時代の考え方かもしれないですね。
そして「農の道まがる子ならばとく直せ 父の慈と是をいふべし」。つまり、「他のことがしたいという子どもは、極端な場合には叩いてでも直しなさい」ということですね。
犬山:この頃に生まれていたら、私は叩いて直されていました(笑)。
太田:今の大人たち、みんなそうです(笑)。とはいえ、農家の継承を背景に自然と教育感覚か教育意識が編み出されたことは、すごいことだと思います。
江戸時代の「よい母」とは?
――「家を守る」ための父子関係だったということですね。一方で母親は、家族内でどのような役割があったのでしょう?
太田:中流以下の武家や庶民の生活を描いた女性向けの絵入り教訓書に、女性の生活が描かれています。
太田:「愛し合う夫婦は、子だくさん。お嫁さんをもらうときは、第一に相性を吟味しなさい」と書かれています。
犬山:……まるで婚活の教えのようです。当時は、子どもをよく産む女性が「よし」とされていたんですね。
太田:近世の後半になってくると、母子画が出てきます。
太田:子どもが絵本を読んでいる様子が見えますね。父親が出張したら母親が「絵本を買ってきて」と言うほど、江戸の子育てにおいて絵本は大切なものだったんです。
絵本を読んでいる子どもの様子を見守る母が「よい母親」考えられている様子が伝わります。
犬山:もう現代とつながってきますね。偏差値至上主義のような価値観はこの頃から始まっていたのですか?
太田:江戸の街に限っていえば、教育に熱を注ぐ心理が働き始めていたようですね。どこの寺子屋がよいかを示した番付もあったんですよ。
太田:女の子も一割ほどですが、寺子屋で学ぶことができました。長女だけ通わせた場合もあったようです。
江戸の街では勉強をする子どもが「よい子」でしたが、地方では農業など家のお手伝いをする子が「よい子」とされていました。
家庭を守る「良妻賢母」は歴史の進歩?
――大政奉還によって武士による政治が終わりを告げ、1868年、時代は明治へと移ります。働くことと生活することが家の中で完結していた江戸時代を終え、親子観はどのように変化していきましたか?
太田:「子どもをしっかり育てたこと」で母親の人生が意味付けられていきます。
この時代の親子観を説明する前に、女性たちの家庭における役割の変化について説明する必要がありそうですね。
明治に入って、急速に「男は外、女は内」という文化ができあがります。政府や軍、官公庁などのエリートポジションが生まれ、男性が家の外へ出ていく文化が根付いていきした。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一文から始まる、福沢諭吉の『学問のすゝめ』がこの時代を象徴しています。つまり、生まれつき定められた身分の違いではなく、学ぶ努力さえ惜しまなければ立身出世が叶うということ。
犬山:そういった背景から男はがんばって外で稼ぐという価値観が生まれた、と。専業主婦の始まりは明治からといわれていますよね。
太田:そうですね。「良妻賢母」という言葉を生んだのは初代文部大臣、森有礼(ありのり)の肝いりで作られた「女学校」からなんです。
太田:当時の有識者や権力者が 欧米の視察に行くと、女性たちが接待を切り盛りし、活発で、意見を交わしている。その姿に憧れを持ち、日本の女性も学があり自分の意見を言えるようになってほしいと、良妻賢母教育を掲げ、女学校を作りました。
その後、大正時代に入ると、元内閣総理大臣の鳩山由紀夫氏の曽祖母にあたる、鳩山春子は『我が子の教育』という著書で「女性も男性と同じように高等教育を受けるべき。そして教育を受けたら家庭に入るべきだ」と説きました。
ーー「良妻賢母」という表現は今でこそ女性の職業選択を制限するような「女性は三歩後ろを下がって」といった印象を受けますが、日本の歴史からすると、女性の自立を目的とした要素を持っていたのですね。
犬山:鳩山春子さんは、教育ママの元祖といわれていますよね。高等教育を受けることは大賛成ですが、家庭に入るべきというのは……。
また、『我が子の教育』の「子どもの権利は遺伝的に良く産んでもらうこと」という記述にも驚きました。今の子どもの権利とは全く違い、優性思想が強かったのですね。
太田:明治生まれの私の父の頃までは、そういう考え方がありましたね。「女性は畑だから、よい遺伝子を持っている人を選ばないと」というような。
この時代のよき文化は、森有礼や鳩山春子らが説いてきた女学校文化。
東京市社会課が大正13年に『愛児の躾と育て』というテーマで、育児についてつづった作品を募集し、応募作131例を「成功した子育て」と「失敗した子育て」に分けて発表しました。
たとえば「〇〇大学に入りました」は、成功した例。「浪人してしまいました」は失敗例に分けられています。今の価値観からすると、子育てを成功や失敗の範疇で語るなんて怖ろしいことですよね。
犬山:その時代に、女性が子育て以外に、仕事を持ったり、自分を表現したり認めてもらえる場があったのかと考えると、きっと多くの女性がそうではなかったでしょう。
そうなると、子育てが自分の存在証明だと思わざるを得なかったことも理解できなくはないです。ただ、子どもを持てない人のことを考えると寿命が縮む思いですが……。
でも、今の自分に対して「あなたの存在意義は、子どもがよい大学に入り、よい就職をして、よい結婚をすることです」と言われたら……「私は私なので違います!」と、走って逃げ出したくなります。
子どもの幸せは願っていても、私が子どもにできることは、その手助け。子どもと母親の人格は違うから、私の存在意義は私の中で見出したい。
それが叶いつつある今の世の中は、当時と比べてよくなってきているのだと感じます。
――今の社会に照らし合わせると、価値観のズレが生じるということは、それだけ社会が進んだということですよね。良妻賢母がステータスだった時代はいつ頃まで続くのですか?
太田:その価値観は敗戦で変わってきました。「個人の人格」の土台が形成されたのは、第二次世界大戦以降ですね。
それ以前にも、平塚らいてう、与謝野晶子など女性と子どもの人格をそれぞれ独立して考える人々はいましたし、その連れ合いや北原白秋たちが「ファザーグースの会」を作り、育児をする父親の先駆けとして活動していました。
でも、それは都会のごく少数の人々。父親たちの価値観が変わってくるのは、もっと後の話です。
――後編では、昭和の高度経済成長期から、平成、令和に至るまでの価値観の変遷をお話していただきます。
<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部
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