「べらぼう」で渡辺謙演じる田沼意次はなぜ失意の死を遂げたのか…将軍継嗣レースで最後に勝利した黒幕の正体
一橋家は弟の意誠が牛耳っていたはずなのに
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江戸幕府十代将軍・家治ものとで権勢をふるった田沼意次はなぜ失脚したのか。歴史家の安藤優一郎さんは「彼は次の将軍の時代に入っても幕政の実権を握れると読んでいた。だが、思わぬ人物の裏切りによって政治生命が完全に断たれてしまった」という――。(第3回) ※本稿は、安藤優一郎『日本史のなかの兄弟たち』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
将軍の側近にいた兄・意次と弟・意誠の関係
将軍の側近から幕府のトップに駆けあがった田沼意次に対し、2歳年下の意誠おきのぶはどのような道を歩んでいたのか。
意次が最初に就いた役職は次期将軍(世子)家重の小姓だが、意誠は家重の弟宗尹むねただの小姓として召し出される。元文元年(1736)には蔵米三百俵を与えられた。
延享2(1745)年に家重が九代将軍の座に就くと、翌3年に弟の宗武むねたけと宗尹が十万石の大名に取り立てられ、田安たやす徳川家と一橋ひとつばし徳川家が誕生する。
意誠は一橋家初代当主となった宗尹にそのまま仕え、宝暦9年(1759)に側用人から家老にのぼった。禄高も五百石に加増され、明和7年(1770)には八百石となる。その後も一橋家に仕え、家老職を十数年にわたって務めた。
意誠が一橋家家老に進んだ頃、既に意次は御側御用取次として影の実力者であり、政治力に期待した各方面からの働きかけも頻繁だった。その裏では多額の金品が動いたが、意次や家臣にアプローチしただけではない。意誠を介して意次への接触を試みることも少なくなかった。意次の窓口として動いた結果、意誠も隠然とした政治力を持つようになる。
仲介役として重宝される
宝暦12年(1762)、江戸藩邸の焼失を受けてその再建に取りかかった薩摩藩では、藩主島津重豪しげひでと一橋宗尹の娘保姫やすひめの縁組がまとまっていたことに目を付ける。
姻戚関係となる一橋家の家老を務める意誠を介して再建費の援助を意次に働きかけ、3000両の下賜金と2万両の拝借金を幕府から引き出すことに成功している。薩摩藩にとり、その窓口となった意誠の存在は実に大きかった。
明和2年(1765)6月より、仙台藩主伊達重村しげむらの側役古田良智よしともは近衛少将から中将への昇進を強く望む主君の意向を受け、幕府への裏工作を開始する。当時は大名にせよ旗本にせよ、朝廷からの官位は幕府が決定権を有したことから、要人に対する大名や旗本からの働き掛けは激しかった。伊達家が働きかけたのは老中首座の松平武元たけちかと御側御用取次の意次であり、両名を味方に付ければ昇進は可能と考えていた。
古田は武元の用人宮川古仲太と意次の用人井上寛司に対面し、主君の希望を伝えた。井上との対面を仲介したのは意誠であり、伊達家の件でも窓口となっていたことがわかる。意次たちへの工作の結果、同4年12月に重村は念願の近衛中将に昇進する。