立憲民主党ほど、日本に不要な政党はない…日本維新の会代表が長年の議員生活で感じた「野党の盟主」の限界
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10月27日に投開票が行われた衆院選で、立憲民主党は議席を大幅に増やした。その立憲民主党に対し、他の議員たちはどのように感じているのか。作家、大下英治さんによる『政権交代秘録』(清談社Publico)より、一部を紹介する――。(第2回)
玉木雄一郎が政治家を目指したワケ
※文中の内容・肩書等はすべて掲載当時のものです。
国民民主党の代表を務める玉木雄一郎は、1969年5月1日、香川県大川郡寒川町(現・さぬき市)で農協職員の父親と特別養護老人ホームに勤務する母親のもとに生まれた。
玉木は、田植えや麦まき、肥料や農薬の散布を手伝った。農作業からは協力や、共生の重要性を学んだ。
3人兄弟の長男だった玉木は、香川県立高松高校を経て、東京大学法学部を卒業。卒業後の1993年4月、大蔵省に入省し、主計局総務課に配属される。1995年、アメリカのハーバード大学ケネディ・スクールに留学。1997年、同校よりMBA取得。1998年、大蔵省接待汚職事件が発生。この事件を目の当たりにしたことと留学の経験が政治家を志す契機となった。
外務省への出向(中近東第一課)を経て、2001年より大阪国税局総務課長。2002年より内閣府に出向。第1次小泉内閣にて、行政改革担当大臣の石原伸晃のもとで秘書専門官に就任。以降、累計3代の同大臣の秘書専門官を務める。
第2代大臣の金子一義から「政治家にならないか」と誘われ、当時、自民党幹事長だった安倍晋三と面談した。しかし、自民党は玉木の地元である香川2区にはすでに別の国会議員を擁していたため、安倍は別の小選挙区からの立候補を提示した。玉木は「国政に挑戦するなら、先祖の墓のある場所でやりたい」と考え、出馬を断念した。
なぜ自民党ではなく民主党だったのか
2005年8月、衆議院が解散することになり、玉木は、財務省主計局主査を最後に財務省を退官。9月11日投開票の第44回衆院選に民主党公認で香川2区から立候補した。
政権与党の自民党ではなく野党の民主党から出馬した理由は、「自民党内の派閥争いではなく、政党同士の争いで政権交代を実現すべき」と考えたからである。この選挙では小泉旋風によって自民党が大勝。玉木は、1カ月ほどの活動で7万177票を獲得して善戦したが、10万794票を獲得した自民党前職の木村義雄に敗れて、比例復活もならずに落選。以降、4年近く浪人生活を送ることになる。
落選後、地元で広報活動に努めるなかで、かつて同地出身で内閣総理大臣を務めた大平正芳の長女である森田芳子を訪ねた。玉木は大平の遠い親族にあたり、大平家の協力を得たいと考えた。
玉木は大平が率いた自民党とは対立する民主党の候補であり、森田は玉木との接触を当初は躊躇していた。しかし、最終的に面会に応じ、さらに森田の長女(大平の孫)である渡辺満子を玉木に紹介した。その後、渡辺は2009年から玉木の公設秘書を務めた。
渡辺は玉木を「大平の精神を受け継ぐもの」と認め、選挙区内の自民党支持者らに玉木への支持を訴えた。その後、2009年8月30日投開票の第45回衆院選に民主党公認で再び香川2区から出馬。