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あなたの子どもも持っている「天才性」の見つけ方【山口揚平】
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KIDSNA編集部の連載企画『天才の育て方』。今回は特別編、「天才性は誰にでもある」とする経済思想家・事業家の山口揚平さん。外資コンサルティング会社を経て独立後、十数社の会社経営のほか、貨幣論・情報化社会論を研究する山口さんに、天才性を見出すための方法を聞いた。
「天才」と聞いて、思い浮かぶのはどんなイメージだろう。
いずれにせよ、「天才として生まれなかった」自分も、自分の子どもも関係ないこと……そう思っている人は多いのではないだろうか。
「多くの人は自分の天才性に気づいていないが、天才性は誰にでもある」こう語るのは、経済思想家・事業家の山口揚平さん。外資系コンサルティング会社を経て独立後、現在は会社経営のかたわら、貨幣の歴史とお金の未来について研究を行い、自分の天才性を発見するためのメソッド「ジーニアスファインダー」を提唱している。
私たち保護者が子どもの天才性を見出すためには、どのように関わればよいのか。また、今こそ天才性を見出す時代だとする理由を聞いていく。
あなたは「天才」の定義を間違えている
――これまで「天才」という言葉を、自分とは遠い存在、自分には関係ないものだと思い込んでしまっていました。山口さんの提唱する「天才性」とは、どのような概念なのでしょうか?
天才というと、アインシュタインをイメージしたり、IQの高さと捉えられていますが、もともと「ジーニアス」という言葉の語源は、ラテン語の「ゲニウス(genius)」です。
ゲニウスとは、生まれつきの優れた性質や超人的な力を持つ不思議な性質を指す「霊性」というスピリチュアルな意味を持っています。
IQの高さを指すのなら「インテリジェンス(intelligence)」や「スマート(smart)」という言葉になると思うのですが、「ジーニアス」はそれよりも、もっと無邪気で自然な意味合いが強いのです。
――自然なものというと、「生まれ持った」とイメージすればいいですか?
生まれ持ったというよりも、「あり方」の問題です。ここでいう「天才性」とは、キャラクターに近い「個性」や、能力を表す「才能」とも異なります。
他の人には難しいことでも自然とできてしまう人を見たときに「あの人は天才だなぁ」と思うことがありませんか? 天才性というのは、IQが高いことでも飛びぬけた才能があることでもなく、このように「自分にとっての自然なありかた」のことをいいます。僕は、本来はこっちの意味の方が正しいと思っています。
その上で、そうした天才性というのは誰にでもあるし、その分野はさまざまだよねということで、「ジーニアスファインダー」というメソッドを広めています。
親や学校で受ける「とげ」によって天才でなくなる
――自分の天才性を見つけるには、どうすればよいのでしょう?
「誰にでも天才性はある」といったところで、問題になるのは、自分が自然体でいられるかどうかは関係なく、いつの時代も一般的、社会的に求められる像がある。
つまり、親や学校に植えつけられた固定観念のせいでがんじがらめになったり、社会に求められるスペックに合わせて生きていくことを人々は求められてしまうということなのです。それがその人の本来の自然なあり方とは違っていた場合、無理があるし、しんどいですよね。
産業が成長し成熟していた時代においては、相対的な自分の「強み」見つけ、他者と競い合える力を伸ばすことが有効だった。
でも今はそうではありません。先の見えない混乱の時代を迎えています。そんな時代だからこそ、自分が自然体でいられる状態を保ちながら、社会に適合する交点を見つけていくことが大事なのではないかと考えています。
だからこそジーニアスファインダーの最初のステップは、過去を整理して記憶の中にある偏った自己評価や固定観念、行動規範などを洗い流す「とげぬき」を行っています。
――とげぬきで偏った自己評価や偏見を洗い流したあとは、自分の天才性をどう生かすのでしょうか。
次のステップでは、自分の天才性を抽出します。
誰にでも、得意なこと、どうしても気になること、時間を忘れて没頭できること、つまり意識の向きやすい方向があると思います。
僕はそれを4つのタイプに分けて考えています。
このように、自分が心地よい周波数や、調和している領域は人それぞれ。
社会との距離感はこれくらい、他人との距離感はこれくらいを保ちたい、というように「これくらいの回転率で日々が回っていないと、ちょっとしんどいな」という感覚が個々人にあるわけです。
感情にとらわれず客観的にこれまでの自分を振り返ることで、自分の意識が向きやすい方向が見えてくるはずです。
こうして自分の「天才性」が分かったら、それに基づいた生き方や働き方を再構築しようというのが最後のステップ。
自分の天才性に即し、社会や他者とのちょうどいい距離感を見つけていくこと。社会の基準に合わせたり通例にこだわることなく、自分の天才性に忠実に生きることが、無理のない生き方なのだと思います。
保護者は100%でなく1/3だけかかわるべし
――保護者としては、子どもが自分らしく生きられるように天才性を見つけ、伸ばしてあげたいと思います。保護者はどのような関わり方をすればよいと考えますか?
僕は、親が関わる過程で教育できることはほとんどないと思っています。
ドイツなどのヨーロッパでいわれているように、大人の関わり方は、保護者が三分の一、学校が三分の一、第三者が三分の一くらいの割合がちょうどいいのではないかと。
戦前は、ご近所も含め15人ほどで子どもひとりを見ていた時代。ところが一世帯あたりの構成人員は毎年減少し、総務省の「住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数」によると、2020年時点でわずか2.13人。
そうすると、関与する大人の数がどうしても減ってしまう。保護者ふたりで子どもを育てるのは精神的な負担も大きいし、ひとり親の世帯ではなおさら孤立を招きます。
子どもにとって、最もエンゲージメントの高い保護者であっても、必ずしも正しいとは限りません。それならば子どもと関わる大人の数は多い方がいいのではないか、というのが僕の持論です。
バイオロジカルなことは気にせず、血縁上、戸籍上の枠を越えて、適度な距離感を持って愛情を注ぐ大人と関われる制度があるといいですよね。
先輩のようなメンターと、師匠のようなマスター複数人が、ひとりの子どもを見る。そしてその子どもが成長したときに、また誰かのメンターとなりマスターとなるのです。
――さまざまなサービスやプロダクトではなく、親以外の「人」である重要性はどんなものですか。
僕がこう考える理由は、生きていくうえでのスキルは「身体知」であり、本や伝聞のみでは学ぶことができないと思うからです。
身体知は、身近にいる大人をよく観察し、モデリングすることで身につくもの。だからこそ、参考になる大人は多い方がいいと考えます。
そのうえで、保護者から子どもに与えるのは、無条件に受け入れられる「愛情」と、生きていくための「栄養」だけで十分。あとは、教育機関や第三者との関わりを見守っていればいい。
ただ勉強をさせるだけでは天才性は育めない
――保護者が子どもに「とげ」を与えないようにするのは難しいことなのでしょうか。
どの世代であれ、そもそも保護者は、自分の原体験も含めてバイアスがかかったものを子どもにぶつけてしまうもの。
保護者自身が、何らかのスペックやラベルといった社会的承認に基づいて生きてきたのなら、無意識のうちに子どもにもスペックやラベルを求めてしまいがちです。
そうすると、子どもがさまざまな感覚を知覚しきる前に、いきなり言語、つまり勉強から入ってしまう。「偏差値の高い大学に行くためには、プログラミングや数学、STEAM教育が大切だ!」と。
そんなふうに勉強ばかりしていると、だんだんセンスがなくなってくるんですよね。
たとえばIQが高く、数学的な理解に長けていても、相手の言葉の真意が掴めないなど、物事を立体的に捉えることが難しくなってしまうというように。
人間は概念を司るために、言葉を扱います。言葉、言語は社会と交点を持つために必要なもの。しかし、子どもの頃に言語は必要ないのではないかと思っています。
子どもは、たとえ言葉に表すことができなくても「これは何だろう?」とさまざまに知覚し、認知しているわけです。
知覚するとは、五感で感じたり、頭の中でイメージしたり、感情が湧き上がること。僕たちの意識が知覚することを「認知」といい、認知のパターンのことを「価値観」と呼ぶ。そして認知の積み重ねを「記憶」というのです。つまり、知覚した記憶の集合体で私たちはできています。
言葉は生活しているうちにいずれ身につきますが、子どもの間は、言葉になる前の知覚や認知の解像度を高めることの方が重要です。
目の前の物事に対する解像度がセンチメートルか、ナノメートルなのか。そのわずかに見える違いが、将来大きな差となります。
15歳くらいまでの間に、どれだけ解像度を高くさまざまな経験を浴びてきたかということが財産であり、その人の素材です。
勉強は素材を料理をすること。最初から料理ばかり教えていても、素材の味はわかりませんよね。素材が良ければ、どう料理するかはそう難しいことではありません。
たとえば、大学受験のために1、2年勉強しなければならないとしても、素材が整っていれば、ある程度学ぶと理解できてしまうだろうし、小さいころからプログラミングを学ばなくても、興味を持って遊んでいるうちに自然に覚えてしまうでしょう。
人間は動物なので、人工物で構成されたものではなく、自然なものを多様に知覚しておいたほうがいい。要するに、遊ぶとはそういうことです。
そういう意味では、「環境設計」も保護者ができることでしょう。
リビングで勉強できるような動線設計や百科事典や地球儀を本棚においておくなど、偶然の出会いが起こる環境を用意することも、遊びの中で知覚するために大切です。
自分の天才性に基づいて生きるために「ノイズを削ぐ」
――言語的な人工物よりも、自然の中で知覚させること。そのために、情報や知識の扱い方にも注意したほうがいいでしょうか。
インターネットが世界に誕生して以来、ウェブサイトの数は現在までに約19億ともいわれ、日々増加しています。たとえるなら、紙の新聞50年分がUSBひとつに収まってしまう量です。
日々莫大に増えていく情報、あるいはノイズと言ってもいいわけですが、これは強い引力を持っている。僕たちの興味を惹くよう刺激的に加工されているんですよね。
そこに意識が引っ張られてしまうのは、仕方がないことです。
引力を持ったノイズから距離を置くためには、自分が自分らしくいられるベストポジションに意識を向けておくことです。
――子育て世代は、子どもの将来に先行きの見えない不安を感じるからこそ知識を得たいと感じるのかもしれません。
「急がば回れ」と言う通り、すぐに役立つ知識は、すぐに役に立たなくなるものです。
そもそも、僕らが知識だと思っているものは、知識と呼べるほど体系的なものではないかもしれません。
引力を持ったノイズから距離を置くためには、自分を俯瞰し、整えること。僕は「整える」というのは、自分をデザインする、つまり「削ぎ落す」ことだと思っています。
デザインの語源は、「デ(削る)・ザイン(形づくる)」。自分の生活や仕事をデザインするとは、つけ足すのではなく、本質まで削り落とすということ。そうすると残るのは、自分を貫く「何のために?」というコンセプトだけです。
情報というノイズも、ゴミも、体重も(笑)、ひたすら増え続けていきますからね。断捨離し、整えることが大切です。
――変化が激しく無限に情報が溢れる中で、子どもを育てる保護者は、より意識的に人生をデザインしなけれななりませんね。
時間軸と空間軸で幅広く見ると、昔と今はまったく異なる価値基準で社会は動いていましたし、日本の常識は世界の常識ではありません。
子育ては、予測不可能な30年後の未来から割り戻して、今コミットすべきことを決めなければならない。
この難しさはノーベル賞と匹敵します。なぜならノーベル賞は20年後、30年後に何が求められるかを見定めて研究を進めます。これは狙ってできることではありません。
未来は予測できない……解がどこにもないならば、その人にとって自然なありようで、自分の天才性に基づいて生きることがベストで、それで勝負するしかないのではないか。僕はそう信じています。
「何のために?」という解は自分の中に見出すしかないのです。
<取材・執筆>KIDSNA編集部
2022.01.11