家康は本気でビビっていた…豊臣秀吉がライバル大名の重臣たちを次々にメロメロにしていった「口説き文句」

家康は本気でビビっていた…豊臣秀吉がライバル大名の重臣たちを次々にメロメロにしていった「口説き文句」

なぜ豊臣秀吉は天下をとれたのか。歴史作家の河合敦さんは「要因の一つに、数多くの有能な武将をスカウトしたことがあげられる。そこには、秀吉らしい時流の読みと、巧妙な人心掌握があった」という――。(第1回) ※本稿は、河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

秀吉が優秀な人材を集めた意外な方法

戦国武将のなかで、最も多くの勇将をスカウトしたのは、間違いなく豊臣秀吉であろう。庶民出身ゆえ、織田信長や徳川家康のように譜代(代々、臣下として一つの主家に仕える家系)の家臣を持たない秀吉は、一から家臣団をつくらなければならなかった。

長浜(滋賀県長浜市)城主になった頃から、秀吉は家族だけでなく親戚、さらに妻・ねねの一族まで、かたっぱしから家臣に取り立てていった。豊臣政権を樹立する頃には、彼らはいずれも自身の領地を持ち、大名へと成り上がっていた。だが、それでも部下が足りない。そこで手っ取り早く、諸大名の家臣団から有能な人材をスカウトしたのである。

有名なのが、軍師の竹中半兵衛を迎えたときの逸話。劉備玄徳が諸葛孔明を迎えるに際し「三顧の礼」を以もってした『三国志』の故事にちなみ、たびたび半兵衛のもとを訪ねては、部下になってほしいと懇願し、了承させたという。ただ、これは後世の『太閤記』などに出てくる話なので、信憑性に欠ける。

ライバル家康の忠臣を強奪

史実として有名なのは、家康の重臣・石川数正の例だ。天正13年(1585)11月13日、岡崎城(愛知県岡崎市)代(留守居)の数正が城から出奔し、秀吉のもとへと走った。石川氏は有力な徳川の譜代大名であり、数正は西三河(現在の愛知県中部)の旗頭、すなわち徳川正規軍の片翼を担う最高司令官だった。しかも、かつて織田・徳川同盟の締結に尽力し、今川家の人質になっていた松平信康(家康の長男)を取り戻し、長篠の戦いで織田軍の支援を取りつけた人物。まさに徳川一の功臣だった。

翌日、家康は岡崎城へ駆けつけたが、すでに数正は妻子や家臣を連れて逃げたあとで、城はもぬけの殻だった。家康の動揺は激しく、不安だったのだろう、最前線の信州小諸(長野県小諸市)を守っていた大久保忠世に、すぐに戻るよう催促している。

重臣の水野忠重も時を同じくして徳川家を去り、秀吉に臣従している。数正と示し合わせての行動だった。

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