なぜ田沼意知は35歳で非業の死を遂げたのか…「無敵の人」に斬りつけられても刀を抜かなかったワケ

なぜ田沼意知は35歳で非業の死を遂げたのか…「無敵の人」に斬りつけられても刀を抜かなかったワケ

「佐野大明神」と祭り上げられた犯人の動機は謎

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)の大きな山場となる老中・田沼意次(渡辺謙)の息子・意知(宮沢氷魚)の死。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「江戸城内で意知に斬りかかった佐野政言の動機には諸説ある。いずれにしても明確な殺意を持っていたことは確かだ」という――。

江戸城内で意知が…、幕府を揺るがした大事件

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)において老中・田沼意次おきつぐを演じているのは、渡辺謙さんです。そして意次の子・意知おきともを演じているのが宮沢氷魚さんであります。その意知が吉原遊郭に通い、主人公の蔦屋重三郎(横浜流星)とも交流を持ったというのはドラマの創作ですが、蔦重の生きた時代には、江戸城内で意知が暗殺されるという幕府中枢を揺るがす大スキャンダルが起きました。もちろんドラマでもその事件は描かれるようです。


意知が意次の子として生まれたのは寛延2年(1749)のことでした。その前年、9代将軍・徳川家重に引き立てられた意次は小姓組番頭に昇進、御用取次見習の役職を兼任しておりました。意次が目覚ましい出世を遂げていく前段階と言えるでしょうか。意次の正室は伊丹直賢(伊丹家は元来は紀州藩士であったが、将軍・徳川吉宗の時に幕臣となる)の娘でした。

まだ家督を継いでいないのに…異例の出世

意次には後妻もおり、それが黒沢定記の娘です。黒沢家は大番組の番士の家でした。この黒沢定記の娘と意次の間に生まれたのが長男・意知だったのです。ちなみに意知の正室は松平康福の娘。康福は石見国(島根県西部)浜田約5万の譜代大名であり、意次より先に老中に就任しています。意知は明和元年(1764)、10代将軍・徳川家治に初お目見え。意次の後継者として認知されます。

その後、意知は明和4年(1767)に従5位下、大和守となり、天明元年(1781)には播磨守、翌年には山城守となっています。天明元年には譜代大名が老中へと上り詰めていくその端緒とされる奏者番(江戸城中の武家の儀式・典礼に関する職)に就任していますが、まだ家督を継承していない者がそれに就任するのは「例外中の例外」と評されることもあります。天明3年(1783)、意知は部屋住の身で若年寄わかどしより(老中に次ぐ重職であり、旗本や老中支配以外の諸役人を統轄した)となりますが、そうした先例はありませんでした。異例ということです。

父・意次が老中となるのが安永元年(1772)のことであり、意次が失脚するのが天明6年(1786)のこと。いわゆる「田沼時代」の後半に意知は若年寄に就任したのです。異例と言うと、父が老中、子が若年寄というのも異例でした。意次の権勢が続いていたならば意知がいずれ老中になることは確実だったと言えるでしょう。

詳細を見る

この記事を読んだあなたにおすすめ

画像

https://kidsna.com/magazine/article/entertainment-report-250707-29537303

2025.07.15

ニュースカテゴリの記事

夫婦円満のコツは「自分のやりたくない家事育児を率先してやる」こと【木下ゆーき】
子育てや教育のテーマを元に読者から集めた質問にゲストスピーカーと対話する動画記事コンテンツ。