「売れる気がしない」新商品プレゼン前日に頭をかかえる軽自動車の神様・鈴木修を救った、取引先社長の妻の言葉
1台60万円の時代に全国一律47万円を実現
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2024年末、94歳で亡くなったスズキの鈴木修元相談役。40年以上にわたってカリスマ経営者であり続けたが、現在のスズキにつながる企業のあり方は、社長就任からの4年間で築かれたものだった――。 ※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
社長就任
「修さんは、(第二代社長だった)鈴木俊三さんの娘婿でしたけど、決して銀のスプーンを持っていたから社長になれたわけではない。修さんには実績があり実力もあったから、トップに立てた。私はそう思います」
こう話すのは、1975年入社の彌吉正文だ。彌吉は東京支店長、広報部長、人事部長などを務め常務役員にまでなった。鈴木修の腹心だった人物であり、いまはもう引退している。
1978年6月、鈴木修はスズキの第四代社長に就く。48歳と、自動車業界では最年少の経営トップだった。
78年3月期のスズキの連結売上高は2975億円(単独売上高は2534億円)。四輪販売の82%は国内、18%が輸出だった。何より、排ガス規制の影響から、厳しい経営環境が残る中での船出となる。
本当は、このときに社長になるはずではなかった。たしかに彌吉が指摘するように、鈴木修には実績はあった。排ガス規制に対応した霞が関と永田町への陳情を重ねた一方、エンジンを供与してもらうためのトヨタとの交渉も担った。さらにはホープ自動車から製造権を獲得して軽四駆「ジムニー」を商品化してヒットさせた。会社の最悪期を凌ぐことができたのは、鈴木修専務の功績だった。
緊急登板でのトップ交代
しかし、どこの会社でも、実力も実績もある人が社長になるというものではない。閨閥で事業承継をしてきたスズキであっても、同じだろう。良くも悪くも、当人が持っている運が左右する。
本来トップ交代は、84年の予定だったのだ。ではなぜ、この時点で社長に就任したのかといえば、三代目社長の鈴木實治郎が病気で倒れたためだ。77年11月だった。スズキには70歳で社長は引退するという不文律があったが、實治郎が70歳の任期を迎えるのは84年6月だった。6年の間には、別の候補者が台頭することは考えられた。
78年4月には、春の選抜高校野球で地元の県立浜松商業が初優勝を果たす。公立高校でも全国制覇ができた時代だったが、浜商優勝の翌々月、緊急登板する形で鈴木修は社長に就いたのだ。
このときから、鈴木修にとって、経営という名の長い旅が始まる。
77年は、實治郎が倒れただけではなく、6月に二代目社長だった俊三が急逝し、同10月には創業者の道雄も病気で倒れてしまっていた。俊三の死は、鈴木修にとっては大きな後ろ盾の喪失を意味した。しかし、もはやこの男しかいなかった。元銀行員の娘婿にスズキと鈴木家のすべてが託されたのである。