信長・家康に惨敗した武田勝頼は本当に"愚将"だったのか…教科書には書いていない長篠合戦後のすごい躍進

信長・家康に惨敗した武田勝頼は本当に"愚将"だったのか…教科書には書いていない長篠合戦後のすごい躍進

「鉄砲の三段撃ち→騎馬軍壊滅」は史実ではない

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼はどんな武将だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「長篠合戦で織田信長、徳川家康の連合軍に大敗したことで、武将としての評価は低いとされている。だが、それ以後の行動を見ると意外な一面が見えてくる」という――。

長篠合戦の勝敗を分けたのは「鉄砲の三段撃ち」ではない

武田勝頼というと、父信玄が築いたものを無にした「愚将」というイメージをいだく人が多い。とくに長篠合戦で織田信長、徳川家康の連合軍に大敗したことと、その後、伝統ある武田家を滅亡させたことで、そう見なされやすいようだ。しかし、大敗も滅亡も、運命のいたずらを含めてさまざまな要因が複雑にからまった結果であり、勝頼に対しては、信玄に負けずとも劣らない才覚があったという評価もある。

たしかに、天正3年(1575)5月21日に行われた長篠合戦では、勝頼は徳川方に「首二千余り打ち取り申し候」(『大須賀記』)といわれるほどの大敗を喫し、名のある武将だけでも山県昌景や馬場信春を筆頭に、100名以上を失ってしまった。

だが、このとき、信長が3000挺の鉄砲を1000挺ずつ並べ、三段撃ちの連続射撃で武田の騎馬隊を壊滅させたという説は、ほぼ否定されている。

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長篠・小牧長久手合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵)・部分(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

火縄銃の射撃間隔を考えると三段撃ちなど不可能で、武田勝頼が鉄砲を軽視していたというのも違う。武田氏は東国の戦国大名のなかでは早くから鉄砲を導入し、信玄の時代から実戦に300挺規模で導入していた。武田軍の鉄砲装備率は10%程度で、これは織田軍とほぼ変わらない(平山優『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)。

たった5年で父よりも広大な領国

かつて歴史の授業でも、織田軍が最新式の鉄砲隊なのに対し、武田軍は旧態依然たる騎馬隊だった、と教えていた。だが、そもそも武田軍の騎馬率は10%程度で、「騎馬隊」と呼ぶほどのものではなかった。

ただ、畿内や堺を押さえているため、鉛や火薬の原材料である硝石を容易に入手できた信長にくらべると、勝頼は銃弾や火薬の入手が困難だった。しかし、これは武将の力量以前の地政学的な問題である。

それより決定的なのは、家康の重臣の酒井忠次が率いる別動隊が鳶ヶ巣とびがす砦を不意打ちし、武田方の長篠城包囲網が壊滅したことだった。武田軍は敵に挟み撃ちにされる前に、目の前の織田と徳川の連合軍を突破するほかなくなった。しかし、設楽原(有海原とも)に陣取った連合軍に攻め入る際に、張り巡らせた馬防柵に足をとられたのが大きなダメージになった。

とはいえ、勝頼はこれで萎しぼんだわけではない。それどころか、5年後の天正8年(1580)には、父信玄の時代を超える広大な領土を治めるに至っている。この年には上野国(群馬県)のほぼ全域が武田氏の領国になり、甲斐国(山梨県)を中心に、北は越後国(新潟県)の西部から南は遠江国(静岡県西部)の一部までの、広大な領国が形成されるのである。

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2025.11.09

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