だから「普通の英語教師」になれなかった…ばけばけ・小泉八雲が「最底辺の移民」から「文学の巨人」になれたワケ
「追いやられた過去」が"外側"への興味を掻き立てた
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NHKの朝ドラ「ばけばけ」は、小泉八雲がモデルになっている。八雲はなぜ、日本の怪談に魅了されたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、八雲を突き動かす原点に文献などから迫る――。
「アイルランド系」は激しく差別される存在
朝ドラ「ばけばけ」の第4週では、トキ(髙石あかり)が東京に向かい、銀二郎(寛一郎)との別れが描かれた。怪談好きで趣味も合っていたのだが、最初の結婚は失敗に終わった。そして第5週では、久しぶりに小泉八雲をモデルとするヘブン(トミー・バストウ)が登場し、ついにトキと出会うことになった。今回は、そんな八雲の日本に来るまでの人生に焦点をあててみたい。
来日するまで、八雲の人生は決して明るいものではなかった。
八雲ことラフカディオ・ハーンは、黒船来航と同じ1850(嘉永3)年にギリシャのレフカダ島で生まれた。父のチャールズ・ブッシュ・ヘルンは駐留するイギリス軍の軍医だが、アイルランド系だった。当時、アイルランドはイギリスの植民地であり、出身者はイギリス帝国内で激しく差別される存在だった。先祖に文人や官僚がいる家系でも、その出自は消えない烙印だった。母のローザ・カシマティはギリシャの下層階級出身で、アラブ人の家系だったとも伝わっている。
そんな二人の結婚は歓迎されたものではなく、八雲は後に「私の両親の結婚については奇談がある」と記している。一節には、母・ローザの一族が結婚に強く反対して襲撃し、父・チャールズは瀕死の重傷を負ったともされる。
母との別れ、カトリック系学校への望まぬ入学
結婚生活は長く続かなかった。1851年、任務を終えてアイルランドのダブリンに戻る途中、西インド諸島への赴任を命じられたチャールズは、ローザと幼い八雲を弟に託して単身赴任。ダブリンのハーン一族は熱心な国教会信徒であり、正教徒のローザを受け入れなかった。寒く陰鬱な気候も、ギリシャ育ちのローザには耐え難かった。
1853年にダブリンに戻ったチャールズはすぐに愛人をつくり、慣れない環境で健康を害してヒステリックになった妻を見捨てた。ローザは八雲と弟を置いてギリシャに帰国し、生涯ほとんど会うことはなかった。しかし八雲は母を思慕し続け、母から受け継いだ「東洋の血」が後の日本への憧れの原型になったと、多くの研究者が指摘している。
八雲を引き取ったのは父方の大叔母サラ・ブレナンだった。富豪で熱心なカトリック信徒だった彼女の指示で、八雲はカトリック系学校に入れられたが、それは彼の好むものではなかった。1863年にフランスの神学校、次いでイギリスのダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)という寄宿学校に入学。礼拝を嫌がる一方で奇抜な悪戯をし、詩の才能もあって学校中の人気者だったという。





























