朝ドラ「ばけばけ」のモデル、小泉八雲が新聞記者として名を売った「残忍すぎるリンチ殺人事件」報道の迫真描写
生きながら焼かれた被害者の苦しみに「ハーンの抱える闇」がシンクロ
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ドラマ「ばけばけ」(NHK)で再注目されている小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。八雲を研究してきた池田雅之さんは「ハーンはヨーロッパからアメリカへ渡り、そこでも貧困に苦しんだが、センセーショナルな殺人をレポートし新聞記者として成功する」という――。 ※本稿は、池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
オハイオ州で新聞記者として文才を発揮
小泉八雲は20年近いアメリカ時代のほとんどを新聞記者として過ごしました。
彼の54年間の生涯を辿たどってみると、大きく3つの時代に分けられます。
第1期は誕生から19歳(1850〜69)までのヨーロッパ時代(ギリシャ、アイルランド、イギリス)。
第2期は19歳から39歳(1869〜89)までのアメリカ時代(シンシナティ、ニューオリンズ、マルティニーク、フィラデルフィア、ニューヨーク)。
第3期は40歳から亡くなる54歳(1890〜1904)までの日本時代(横浜、松江、熊本、神戸、東京)です。
こうして世界を転々とした八雲の生涯を俯瞰してみると、とりわけ1869年(明治2)から1877年(明治10)までのオハイオ州シンシナティ時代は、のちに作家として立つ素地が作られた時期として重要な意味をもっています。この時代は、八雲がセンセーショナル・ルポライターとして、ジャーナリズムの世界で頭角を現しただけでなく、日本時代の晩年の『怪談』にも通ずる怪奇的なもの、ゴーストリィなものを扱う文章家としても、いち早く文名を高めた時期といってよいでしょう。
「獣のごときシンシナティ」と罵倒したが…
「獣のごときシンシナティ」とは、シンシナティ時代に八雲が父親のように慕った印刷業者ヘンリー・ワトキンに宛てた手紙の1句です。シンシナティへの悪罵あくばといってよいでしょう。八雲は1869年、19歳の夏に、単身リバプール港から移民船に乗り、ニューヨークに到着したと伝えられています。それから、ニューヨークから移民列車に乗り継ぎ、5日間をかけてシンシナティに向かいました。しかしシンシナティでは、頼るべき縁者からも裏切られ、アイルランドからの遺産も受け取れず、ロンドン時代と同様、再び天涯孤独の身となってしまいました。
シンシナティ到着時は、八雲は宿屋の給仕、電報配達、煙突掃除、屑くず集めなど三十数種の職を転々としました。飢えと窮乏をしのぐ日々でした。しかしながら、社会的底辺であえぐような過酷な生活体験をしたことが、のちのセンセーショナル・ルポライターとして、ひいてはゴシックロマン風の怪奇ものを得意とする文筆家として、一家を成すための素地となったと考えられます。


























