【辻愛沙子/中編】中学から海外留学。居場所を探し続けた子ども時代

【辻愛沙子/中編】中学から海外留学。居場所を探し続けた子ども時代

1995/1996年以降に生まれ、スマートフォンやSNSが当たり前にある中で育ったソーシャルネイティブである「Z世代」は、これからの時代をどう切り拓き、どんな革命を起こしていくのか。世代のギャップを超え、親自身の考え方をアップデートするため、その価値観に迫っていく。第1回は、株式会社arca(アルカ)代表取締役社長で、広告クリエイティブディレクターとして活躍する辻愛沙子氏が登場する。

SNSが当たり前の時代を生きるソーシャルネイティブなZ世代は、年齢や性別といった属性の枠に縛られない。

自分の好きなことと、社会に対して思っていることを切り離さずに考えてオープンに発信する面と、自分の周囲の小さなコミュニティを大事にする面が共存している。

前編で、Z世代の特徴をそんな風に語ってくれたのが、arca(アルカ)代表取締役社長で、クリエイティブディレクターとして活躍する辻愛沙子氏(以下、辻さん)。

【辻愛沙子/前編】次の社会を担うZ世代の「発信」というアクション

【辻愛沙子】次の社会を担うZ世代の「発信」というアクション

そんな世代だからこそ、「これまでの広告が生み出してきた、先入観や固定観念、偏見といった“ステレオタイプ”の再生産をなくしたい」と話す辻さんは、どのように幼少期を過ごしたのだろうか。

時代の転換期である今、その目的のために自分のクリエイティビティを発揮して、業界や社会全体の感覚をアップデートしていきたい」と語るのは、arca(アルカ)代表取締役社長でクリエイティブディレクターとして活躍する辻愛沙子氏(以下、辻さん)。

1995年生まれでまさにZ世代の先頭を走る彼女は、どのような子ども時代を経て今の考え方に至り、世の中への影響力を発揮しているのだろうか。辻さんの思考や行動力の背景と、Z世代がもたらす変化に迫っていく。

「ここではないどこか」を求め中学生で海外へ

――辻さん自身はどのような子どもだったのでしょうか?

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辻愛沙子(つじ・あさこ)/1995年生まれ。株式会社arca(アルカ)CEO。社会派クリエイティブを掲げ、広告から商品プロデュースまで領域を問わず手がける越境クリエイター。慶應義塾大学の在学中に株式会社エードットに入社し、幅広いジャンルでクリエイティブディレクションを手がける。女性のエンパワメントやヘルスケアを促す「Ladyknows」プロジェクト代表や、報道番組 news zero の水曜パートナーとして、レギュラー出演も務める。

「小学校から大学まで、どの環境にも馴染めない『変わった存在』。ずっと居場所を探して悩んできました。

もともと幼稚園から高校まである一貫の女子校に通っていて、入学した年中のときからずっと同じメンバーで過ごしていたので、みんな幼馴染で家族みたいに仲がよくて、いじめもないすごく平和な環境でした。歳が3つ離れてる姉も同じ学校で、その環境が、自分の知っている世界のすべてでした。

でも、そんな自分の故郷みたいな場所のはずなのに、学校の中での挨拶が『ごきげんよう』だったり、髪型は三つ編みと決まっていたりして、自分が社会の偏った場所にいるという自覚もあった。外の世界に対する興味は小さいころからあったんですけど、だからといってそれを知るすべもなくて。

唯一の冒険が学校の帰りに売店でアイス食べるとか、塾の横にあるカフェに行って制服でポテト食べるくらい。その程度でも『ワルだわ』ってテンションが上がるような環境だったんです。

IKEDA
iStock.com/D76MasahiroIKEDA

学校の成績も、すごくできる科目と、全然だめな科目がすごく分かれるタイプ。集団行動が苦手で、自分の好奇心に正直なタイプだった。遠足でみんなで歩いているときも、ちょうちょが飛んでいたら『あ!ちょうちょ!』ってそれしか見えなくなって、列から離れてしまうような子どもでもありました。

だから、常に孤独感があった。『ここじゃないどこか』に対する憧れや興味が強くて、こんなに偏った世界に、閉じこもった世界にいていいのかと、小学校時代からずっと漠然ともやもやしていました。居場所を探していたというか。

当時は鍵っ子だったので留守番が多くて、ガラケーで流行っていた魔法のiらんどを見たり、キッチンの奥にある古いパソコンで小説を書いたりしていたので、インターネットを使うことには慣れていました。

そのうち、学校生活での違和感と同時にどんどん外に対する好奇心が強くなってきて、今自分がいる環境と一番遠い、想像もできないようなところに行きたいなと思い、小学6年生の頃、インターネットで海外の学校を調べるようになったんです。

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一貫の女子校で、当然実家に住んでいて、日本人しかいなくて、カトリックの学校で宗教も統一されている環境だったので、真逆の世界に生きたいなと思った。

異文化・多人種・多宗教・多言語で、共学で男の子もいて、寮生活で……と、今までの環境にはない要素を条件として、いろいろな学校の資料請求をしました。そして自分の中で決意が固まってから、両親が仕事から帰ってきたタイミングで、プレゼンをして説得しました」

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人生の決断を否定しないでいてくれた両親

――13歳で一貫校を辞めて海外に行くとなると、ご両親もいろいろ迷いがあったかと思いますが、当時はどのような反応でしたか?

「両親が仕事から帰ってきて、たしかお姉ちゃんが塾でいないタイミングを見計らって、『相談があります』と。おぼろげな記憶なのですが、両親が言うには、資料請求した学校の詳細を見せながら説明をしたようです。

そうしたら、スムーズに『じゃあ留学のサポートをしてくれるエージェントのところにいっしょに行こう』となって、相談しながら『ここの学校にしよう』って決めました。学校を決めたら今度は『今通っている学校に相談しに行こう』と、両親と校長先生を交えて4者面談をして。

そのときの記憶は子どもの頃の話なのでちょっと脚色があるかもしれないんですけど、そこで校長先生が、まるで悪いことをしていると言うかのように 『前例がないので認められません。自主退学でもしない限り、推薦書は書かない。』と言ったんです。 当時の子どもながらに挑戦したい気持ち、自分の中に育っていた冒険心を、ポキッと折るような言い方を校長先生にされたことが、すごく印象に残っていて。

両親も驚いて、『もう一回ゆっくり考え直そうか』と言ったんですけれど、私の中で一度着いた火は消えなくて。 『じゃあ辞めます!』ってその場で私が思わず言ってしまったので、両親もそれに反対せず『娘がこう言っているので……辞めます』ってなったっていう(笑)。

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両親も最初は当然驚いていましたが、『子どもの挑戦を応援したい』ってどこかで思ってくれていたんだろうなって、今考えると思います。

小学校1年生のとき、子育て中心の生活だった母が仕事を本格的に始めて、共働きになったんです。同じころ、医師である父も大学病院を辞めて独立し、いろんな仕事をやるようになりました。

そうやって両親ともに、自分たちなりの挑戦をやってきた両親だからこそ、子どもである私は『あれやりなさい、これやりなさい』とあまり言われたことがないんですよね。

留学が決まってからは、最初は英語を学ぶためにイギリスの語学学校に行き、その後、多様な人種が集まるスイスの学校に行くことになりました。スイスで過ごしたのはルガーノという町で、飛行機は乗り継ぎが必要なところ。

今考えると、13歳の子どもをそんなところへ送り出す両親の覚悟とパンク精神がすごいなって思います。

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スイス・ルガーノ(iStock.com/encrier)

これだけ特殊な道を歩んでいて、奇抜なヘアスタイルやファッションをしても、それなりに倫理観や道徳心を欠かず、相手に失礼なくコミュニケーションを取れるのは、人生の始まりにカトリックの一貫校で厳しさを知っていたおかげだと思うので、通わせてもらったこともありがたいなと今では思っています」

自分のアイデンティティと向き合い、クリエイティブの道へ

――13歳での決断を経て、海外での経験はどのようなものでしたか?

「日本の一貫校にいたころのルールに縛られた世界からの開放感で、『自分の好きなことを自由にやる』ことに没頭していきました。

中学校ではスイスにいたのに、日本で全盛期だったニコニコ動画の生配信や作曲をしたり、高校では狂ったように原宿カルチャーとファッションが好きになり、ぱっつん前髪で姫カットという東京ガールのスタイルを貫きながら、絵をずっと描いているような思春期でした。

外に出てみて初めて中の魅力がわかると言うか、今まで知らなかった、日本のカルチャーに強く影響を受けたんです。

自分でものを作ってみることによって、自分の中にストックされている文化が狭くて偏っているんだっていうことに気づいたし、外の世界に対する好奇心と同じくらい、『自分はどんな人間か?』『自分は本当は何が好きなんだろう?』と自分のアイデンティティへの好奇心も湧いてきて。

海外留学してガラッと環境を変えれば、日本で感じた『ここではないどこか』に対する渇望や焦燥感は消えるかと思ったのに、消えなかった。だから、ずっと寮の部屋にこもって自分と向き合いながらものづくりをしていました(笑)。

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同時に、結果的には行ってよかったなとすごく思っているんですが、『帰国子女』と聞いて浮かぶキラキラしたイメージとは違う経験もたくさんありました。

他の学校に行った子に聞いた話と比べると、人種差別は比較的少ない場所だったんですが、当然ゼロではなくて。英語もペラペラではないので、言語の壁もすごく感じました。

スイスで通った中学校では、同じ日本人よりも、国も言語も違うイタリア人と仲がよかった。つい見た目で”近しい人た ち”、”違う人たち”と線引きをしてしまいがちですが、人種の違いより個々人の違い の方が大きいんだと強く感じました。国が一緒だから違うから、で はなく、”その子だから”仲良くなるんだなと。 

そこからさらに環境を変えようと思って、イギリス、スイスときてどちらもヨーロッパだったので、『次はアメリカだ』と。

今度は日本人がいっぱいいる学校で、見た目はみんな同じ感じの日本人だったんですけど、ずっとアメリカで過ごしてきた子もいれば日本から来た子もいて、ネイティブが日本語なのか英語なのかで、特殊な派閥があったりして。

対立しているわけじゃないですけど、同じ人種で見た目が同じでも、人は何かとグルーピングしたがるんだとなんとなく感じました。

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こうしてイギリス、スイス、アメリカと環境を変えてきて、初めて感じる異文化で刺激はたくさんあるのに、やっぱり日本で感じた『ここではないどこか』に対する渇望や焦燥感が消えなかった。

物足りなさがあったり、枯渇してる感じというか……。好奇心旺盛で欲求が大きいので、絵を描いてみたり曲を作ってみたり歴史の本を読んだり、周囲が引くほどに熱中するものがある一方で、みんなが当たり前にできている集団行動などの”普通”ができない。そんな漠然とした生きづらさを常に抱えていたように思いま す。

だから、私の経歴を、私立中学に行って、海外へ行って、帰国子女として日本に帰ってきて、広告業界に入って、会社作って……って聞くときれいに聞こえるんですけど、実は挫折の連続で。

そんな中、私が、初めて居場所を見つけたのが今の広告の仕事でした」

最終回となる後編では、大学で日本に帰国し、広告の仕事に出会うまでの道のり、そして広告業界で発信を続ける原動力とは何か、聞いていく。

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<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部

2020.10.21

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